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● 小高地区
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朝鮮日報 記事入力 : 2012/02/27 11:12
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/02/27/2012022701095.html
東日本巨大地震:本紙特派員、禁断の地を行く
地震から1年、福島第一原発から14キロの地域を取材
放射能の数値は東京の100倍
押し流された車や崩壊した住宅は放置
25日朝、福島県の南相馬市役所から福島第一原子力発電所方向に車で十数分走ったところで、警察に制止された。
福島第一原発から半径 20キロ以内の地域は今も立ち入りが禁止されているため、本来なら許可がないと中には入れないが、通行許可証を所持する現地住民の車に乗っていたため、無事に検問を通過できた。
この地域は放射線のレベルが非常に高いため、一般人は立ち入りが禁止されている。
昨年3月11日の東日本巨大地震でマグニチュード9.0の巨大地震とそれに伴う津波がこの地に押し寄せ、福島第一原発で爆発事故が発生した。
その影響で放射性物質が放出したため、周辺は人が住めない土地となってしまった。
原発から10キロから20キロの範囲にある南相馬市小高区を訪れた。
小高区は地震、津波、原発の三重苦を一身に受けた地域だ。
車が福島第一原発の方向に向かうと、放射能の数値が急激に上昇しはじめた。
原発からおよそ14キロの地点に到達すると、放射能測定器の数値が6-7マイクロシーベルトにまで一気に跳ね上がった。
東京ではこの数値が0.05から0.07マイクロシーベルトだから、およそ100倍ということになる。
一時的な被爆なら健康にそれほどの影響はないそうだが、記者があわてて防護服を着用しようとすると、案内してくれた住民は
「この程度なら非常に低い数値だ」
と語った。
住民たちは自宅に残した貴重品や家財道具などを取りに、しばしばこのを訪れるという。
この住民は
「林の中だと20マイクロシーベルト以上になるところも多い。
原発周辺でも測定したことがあるが、その時は測定機器の限界(1000マイクロシーベルト)を超えた」
と語った。
この地域は東日本巨大地震と津波、原発の爆発事故直後から、時間が凍り付いたような風景が今も広がっている。
田畑には1年前の津波で流された車や建設用の重機などが、赤くさびたまま放置されていた。
ある住宅のリビングには、津波で流された車が飛び込んだままの状態になっていた。
1万2000人以上の小高区住民は原発事故後、全国に散らばって1年近く避難生活を続けている。
死者1万5860人、行方不明者3282人の被害を出した東日本巨大地震からの復旧は、今も各地で急速に進んでいる。
しかし、原発周辺から避難している15万人以上の住民は
「自宅には永遠に帰れないかもしれない」
という不安におびえている。
』
『
朝鮮日報 記事入力 : 2012/02/27 11:17
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/02/27/2012022701136.htm
人影のない町、まるで恐怖映画
原発20キロ圏内の旧小高町
福島県南相馬市小高区(旧小高町)は、まるでゴーストタウンだった。
25日に現地を訪れると、雪が降り積もった通りや家々には人影はなかった。
町の入り口の低地帯は、まるで爆撃でも受けたかのように悲惨な状況で、東日本巨大地震の惨状を物語っていた。
そこには当時日本を震え上がらせた地震と原発事故の恐怖がそのまま残っていた。
車で町の中心部を通り過ぎると、崩壊した住宅が道路の半分ほどを塞いでいた。
屋根は原形をとどめているが、柱や壁は跡形もなかった。
ある工場では看板が崩れ落ち、無造作に転がっていた。
地震で工場や店の壁が崩れ、穴が開いている場所も多かった。
■慌てて避難した形跡
人影のない通りでは、赤信号だけが点滅していた。
白昼でも電気がついている店があったため、ドアをたたいてみたが、中には誰もいなかった。
店の内部はほこりをかぶっており、商品は散乱していた。
その様子から、避難当時の緊迫感が伝わってきた。
住民の多くは、昨年3月12日に福島第1原発1号機の建屋で起きた水素爆発の音を聞いて恐怖に駆られ、町を大急ぎで出て行ったという。
住宅街や工場にはきれいな車が止まっていた。
原発事故直後にガソリンがなく、そのまま放置された車もあった。
自転車ショップには新品の自転車がそのまま残され、シャッターも下ろさず、主人がいなくなった建物も多かった。
小高区だけでなく、周辺の双葉町や浪江町など20キロ圏内の地域は、全て似たような状況だった。
中心部から出ようとすると、空き巣狙いの泥棒を取り締まる警察のパトカーや、福島原発関連の作業車両とすれ違った。
警戒区域に入ってから初めて接した人影だった。
集落の郊外では、道路脇に倒木が放置されていた。
田畑は高さ1メートル以上にまで生い茂って枯れた雑草のせいで、どこがどこだか区別が難しかった。
記者に同行した現地住民は「夏には人の背丈ほどの雑草が家々を覆った」と話した。
郊外には放置された牛や豚を捕獲するために政府が設置したわなもあった。
牛がえさを食べると、扉が自動的に下りる仕組みになっており、政府はこうして捕獲した牛などを住民の同意を得て殺処分している。
原発事故以降に生まれ、所属農場の表示がない牛は即座に殺処分される。
■住民1万2000人が放浪生活
小高区に住んでいた住民約1万2000人は全員が避難生活を送っている。
福島県を離れ、別の地域に避難した人も多い。
小高区出身のサイトウサチコさん(48)は、昨年3月12日に避難して以降、5回も引っ越しを繰り返した。
最初は南相馬市内に避難したが、1週間もたたずに商店が閉まり、水も買えなくなったため、福島市に移動した。
現在南相馬市でアルバイトをしているサイトウさんは
「住民の約30%は南相馬市(の警戒区域外)にある自宅に帰れる日を待っている」
と話した。
小高区がある南相馬市は人口約7万人だが、原発事故で半数が別の地域に避難した。
事故直後には、放射能に対する恐怖で、外部からの物資供給が滞り、住民は苦境に立たされた。
桜井勝延市長は当時、ユーチューブの動画で
「われわれは孤立した。住民が飢えている」
と全世界に向けて支援を訴えた。
大地震発生からほぼ1 年、状況は少しずつ改善している。
原発から半径20キロの警戒区域のすぐ外では、24時間営業のコンビニエンスストアが営業しているほか、スーパーや飲食店、学校なども再開した。
道路には登下校する子どもたちの姿も見られた。
しかし、住民はできるだけ子どもを外出させないよう注意しているという。
住民のマサダエイコさん(45)は
「最近、原子炉の温度が再上昇したという報道があった。
原発事故はまだ完全には収拾できていないため心配だ」
と不安な心境を語った。
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朝鮮日報 記事入力 : 2012/02/27 11:14
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/02/27/2012022701113.html
福島原発20キロ圏内で牛を守る
● 福島県浪江町にあるエム牧場浪江農場長の吉沢正巳さんが、飼育している牛を指差している。
昨年3月11日の大地震と津波発生以降、農場で働いていた従業員は全員避難したが、吉沢さんは牛にえさを与えるため一人残った。
吉沢さんは、爆発事故があった福島第1原発から半径20キロ以内に住む唯一の住民だ。
/写真=車学峰特派員
「わが子のように大切な牛を飢え死にさせることはできなかったんです」
東京電力福島第1原子力発電所から14キロ離れた福島県浪江町でエム牧場浪江農場を営む吉沢正巳農場長(58)は、事故から1年、農場を守ってきた。
吉沢さんは事故があった原発から半径20キロ以内に住む唯一の住民だ。
記者が取材に訪れた25日にも、吉沢さんはまるで何事もなかったかのように、牛にえさを与えていた。
農場では一時、放射線量が20マイクロシーベルトまで上昇。
現在は低下したとはいえ、6-7マイクロシーベルト前後の放射能が検出されており、通常よりも100倍ほど高い数値だ。
吉沢さんは昨年3月12日以降、福島原発から聞こえる爆発音で眠れない夜を過ごした。
当時、風は浪江町の方向に吹いており、住民は慌てて避難した。
同居していた弟、ほかの従業員も全員避難した。
しかし、吉沢さんは自分まで農場を離れれば、牛が飢え死にすると考え、会社の撤収命令を無視し、農場を守るために残ることを決心した。
事故発生から2週間後には一時避難したが、その日の夜にはすぐに戻った。
警察が制止したが
「牛が飢え死にしたらどうするのか」
と訴えかける吉沢さんを警察も止めることはできなかった。
吉沢さんは一時、避難所に宿泊し、農場に出勤する生活を送っていたが、昨年12月からは農場で寝泊まりしている。
農場では現在、牛300頭を飼育しているほか、周辺の農場で放置された牛の面倒も見ている。
住民が避難した畜産農家の牛は、冬を迎えて大半が餓死した。
牛をあきらめようとした会社側も吉沢さんの熱意に打たれ、放置された牛を救う運動に同調している。
最近は市民団体も加わり、エム牧場は原発周辺の家畜を救う「希望の農場」運動の象徴となった。
吉沢さんの活動は全国的に有名になり、日本政府も吉沢さんが警戒区域に立ち入ることを制止していない。
また、吉沢さんの熱意に感動した畜産農家からは寄付金やえさが届けられている。
日本政府は住民の同意を得て、原発から20キロ圏内の家畜の殺処分を進めている。
吉沢さんは
「政府はまるで何かを隠蔽(いんぺい)するかのように、家畜を殺している。
20キロ圏内の牛は飼育しても売ることは不可能だが、原発事故の後遺症研究などに活用できる貴重なものだ」
と訴えた。
全国から支援の手が差し伸べられる中、吉沢さんの農場には太陽光発電装置が設置され、インターネットも開通した。
吉沢さんは福島第1原発と農場を映すカメラを設置し、インターネットでライブ映像を発信している。
さらに吉沢さんは月に1回、東京で原発周辺での家畜殺処分防止を訴える集会を開いている。
吉沢さんが農場を留守にする際には、ボランティアが代わりに農場を管理している。
現地で会ったボランティアの人に放射線が怖くないかと尋ねると
「無謀ではないかと考えることもある」
と言いながらも、辞めるつもりはないとの回答が返ってきた。
原発事故以降、動物保護団体も警察の警戒ラインを越え、犬や猫の救出活動を展開している。
』
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レコードチャイナ 配信日時:2012年3月11日 13時5分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=59481&type=0
日本を訪れた中国人、震災後1年で激増、
放射能漏れを心配する韓国人は減少
2012年3月10日、韓国紙・中央日報(電子版)によると、昨年の東日本大震災から1年間で日本を訪れた中国人の数は激増。
しかし韓国人観光客の数はいまだに回復していないという。
中国の環球網が伝えた。
今月1月に日本を訪れた中国人は13万8400人。
震災前の昨年1月に比べ、40%近くも増加。
震災直後に激減した中国人の訪問客数は昨年10月にプラスに転じた。
しかし、10年以上も日本の最大顧客だった韓国人観光客の数は回復していない。
震災直後の昨年4月、前年比で60%以上も減った韓国人訪問客数は、現在も前年比マイナス30%台。
11年も最多だったが、2位の中国観光客との差は大きく縮小した。
日本政府は観光客の誘致に必死だが、韓国人の反応はいまひとつ。
「日本は放射能で危険な国」
という認識を韓国人が変えないかぎり、訪問客数の回復は望めない。
最近ソウルで行われた調査では
「日本を観光しても問題はないと思うか」
という質問に対し、「問題ない」と答えた回答者はわずか26%で、在日韓国人の59%に比べて不安感が強いことが分かる。
また83%が
「日本を観光したいが、食品や空気中に含まれているかもしれない放射性物質のためにためらっている」
と回答。
このため日本の観光庁は
「放射能の危険性は福島原発周辺などの一部に限られ、食品などに問題はないということを積極的に広報していく」
と話している。
』
『
朝鮮日報 記事入力 : 2012/03/09 13:24
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/03/09/2012030901355.html
東日本巨大地震:無責任政治に失望、無党派層が68%に
極度の政治不信広がる
「戦後最悪の危機だというのに、政治家は政争ばかり繰り返している」(35歳、会社員)
「自民党が嫌いで民主党に投票したが、かなり失望した。既成政党に期待することはない」(40歳、主婦)
東日本巨大地震と福島第一原子力発電所事故の収拾が遅々として進まない中、日本では政治全体が極度の不信を招いている。
朝日新聞が最近実施した世論調査で、民主党の支持率は17%まで低下し、自民党は12%まで落ち込んだ。
日本国民は、民主党の災害対応能力に失望している上、何かにつけて政府の足を引っ張る自民党に対しても、絶望同然の感情を抱いている。
時事通信による最近の世論調査では、「支持政党なし」という無党派層の比率が68.2%まで上昇した。1960年に世論調査が始まって以来、過去最高の数字だ。
■無責任の政治システムがむき出しに
東京大学の木宮正史教授は
「日本政治の特徴である“無責任のシステム”が、原発事故の収拾過程でむき出しになった」
と語った。
「無責任のシステム」とは、依然として太平洋戦争を起こした人物や責任を取るべき人物について究明しようとしないなど、責任と権限が不透明な日本政治の特徴を指す。
日本の国家システムは、頻繁に変わる首相が「国の顔」の役割を果たすだけで、実際には官僚が国家を動かすというものだった。
日本の高度成長を主導した官僚システムは、一時は世界最高水準という賛辞を受けた。
しかし、バブル崩壊後に動作不良に陥った官僚システムは、東日本大震災でそのもろさがはっきりと浮き彫りになった。
世宗研究所の陳昌洙(チン・チャンス)博士は
「官僚のマニュアルに基づいて維持されてきた日本の政治システムは、リーダーの決断力を要する危機の状況では全く機能しないことが証明された」
と語った。
■論文「日本の自殺」が再び流行
1975年に発表された「日本の自殺」という論文が、最近『文藝春秋』などに再び掲載されるなど、関心を集めている。
「日本の自殺」は、リーダーシップの危機などにより、日本が内部から崩壊すると主張する論文で、日本の現状を最も的確に予測しているとの評価を受けている。
こうした危機意識は、強力な指導者の待望論という形で噴出している。
関連書籍の出版が相次ぎ、田中角栄元首相(1972-74在任)に突然スポットライトが当たるという現象も起きている。
田中元首相は、収賄事件で有罪判決を受けるなど金権政治の象徴だったが、推進力と決断力の面では評価されている人物だ。
極右政治家に対する期待も高まっている。
産経新聞が最近「最もふさわしいリーダーは誰か」を問うアンケート調査を実施したところ、現役政治家の中では橋下徹・大阪市長(21.4%)がトップに立ち、石原慎太郎・東京都知事(9.6%)が2位となった。
橋下市長は、地域政党「大阪維新の会」の全国政党化を宣言しており、石原都知事は新党結成を構想中だ。
2人はいずれも、カリスマ性を備えた政治家と評価されているが、独断的かつ極右的だ。
中島岳志・公共政策大学院大学准教授は
「既成政党に対する絶望が、救世主待望論として表出している」
と分析した。
東日本巨大地震をきっかけに、日本の右傾化が加速しているという分析もある。
陳昌洙博士は
「自民党は、憲法を改正して天皇を国家元首にするという案を提示した。
景気の冷え込みに加え原発事故まで重なったことで、右傾化が加速しているようだ」
と語った。
東日本巨大地震以降に頻発している反韓流デモも、日本社会の極右化傾向を反映していると分析されている。
■首相公選論も台頭
強力な指導者の待望論が出回る中、次期衆院選での橋下新党・石原新党の躍進が予想されている。
野田佳彦首相の人気が急落しており、6月中の国会解散・総選挙も有力視されている状況だ。
木宮教授は
「既存の政党に対する不信から、新党が躍進するだろう」
という見解を示した。
政治システムそのものを改革すべきという主張も出ている。
上院に当たる参議院を廃止し、国民が首相を直接選ぶ公選制を導入しようという意見だ。
橋下市長は
「議員が首相を選ぶ今のシステムでは、誰が首相になってもリーダーシップを発揮できない」
と主張する。
しかし、木宮教授は
「日本は没落・衰退の渦中にあり、大きな改革は難しいだろう」
と語った。
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レコードチャイナ 配信日時:2012年3月12日 6時34分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=59413&type=0
<コラム・巨象を探る>
3年で復興完了した「四川大地震」の経験生かせ
―遅々として進まぬ東日本大震災復興
2012年3月11日、東日本大震災から1年が経過したが、復興は思うように進んでいない。
がれき処理など課題が山積し、被災地再生の具体化はこれから。
34万人余りが全国各地に避難し、仮設住宅などで不自由な生活を送る。
2008年5月に発生した中国・四川大地震では3年で復興終結宣言が出たが、この事例に比べはるかに遅いと言わざるを得ない。
未曽有の大地震は日本経済に大きな打撃を与えた。
死者・行方不明者は約1万9千人。復興費用は10年間で23兆円と推定されている。
震災による企業の損失は東証一部上場企業だけで3兆1千億円。
全体の被害額は計り知れない。
東日本大震災関連の企業経営破綻は677件にのぼった。
1995年の「阪神・淡路大震災」が発生から丸1年で152件だったのと比べ4倍強に膨らんだ。
政府の司令塔となる復興庁が発足したのは地震発生から1年近く経った2012年2月中旬。
東北3県の震災がれきは約2250万トンに達するが、ほとんどは被災地の仮置き場に積まれたまま。
多くは自治体のまちづくり計画に組み込まれた場所で、処理の遅れは復興に大きく影響する。
政府は自治体にがれきの受け入れを呼び掛けているが、正式に引き受けたのは東京都と青森、山形両県だけ。
大半の道府県では住民の反対によって拒否され、
日本人の美徳「絆」に疑問符が付く
事態となっている。
復興関連予算の執行が遅れていることも問題だ。
4次までの補正予算に計上された14兆3400億円のうち執行されたのは6割程度。
政府は、地方自治体への総額1兆8500億円の復興交付金の第1弾として、2509億円の配分を決めたが、被災自治体からは
「政府の査定が厳しく通常のひも付き補助金と変わらない」
との不満の声が出ている。
各種世論調査では、復興が「進んでいない」と見る人が80%前後に達し、東北被災地ではこの数字がさらに跳ね上がる。
その原因については、
「原発事故の影響」
「被害の規模と範囲の大きさ」と並んで、
「政府の対応に問題」
との回答が目立つ。
政府・与党は、これらの数字を重く受け止め、復興事業の加速に全力を挙げるべきである。
被災者は一日も早い復旧・復興を望んでおり、政府には、もっと被災者や自治体に密着した対応が求められる。
2008年5月12日に起きた中国・四川大地震。死者が9万人に上り、家屋の倒壊21万6千棟、損壊家屋は415万棟にも達した。
四川省西部の被災地では、震災の傷跡を感じさせないほどの復興を遂げた。
2011年9月時点で国の復興再建プロジェクトの完了率が98.7%に達し、四川省の103に上るプロジェクトもほぼ終了し、「復興完了宣言」も出された。
四川大地震発生後の3年間で540万世帯、1200万人以上が居住する住宅が建設された。
同地震では学校校舎の倒壊が目立ち、校舎の下敷きになって死亡した学生の数は1万9千人にも上った。
「おから工事(手抜き工事)」や耐震基準の低さなどが指摘され、人災であるとして保護者や遺族が国を訴える動きや抗議活動なども見られた。
「学校、病院を最も安全な場所にする」
との目標の下、倒壊した学校3001校のうち2989校、医療機関も1362カ所中の1359カ所が既に建て直された。
地震の翌年2009年には被災地区のGDP成長率は15%に達し、工業出荷額、小売総額ともに3割増となり、現在では被災地区の基本的な生活水準や経済活動は震災前の水準を大きく上回っているという。
四川大地震発生の3週間後に、中国政府は大規模な財政出動策を決定。
さらに、甚大な被害を受けた四川省内18県(市)及び甘粛省、陝西省と、経済力のある省(市)を1対1の形で組み合わせて復興支援を担わせる「復興プログラム」を策定。
支援側の省(市)に、年間財政収入の1%以上を復興支援費用に拠出することを義務付けた。
経済力のある広東省、江蘇省、上海市、北京市など19省(市)が、被災地を3年間支援、大きな成果を上げた。
支援側省(市)の財政力によって不公平が生じないよう、被災の重さによって順に財政収入の高い省(市)が割り当てられ、主に住宅や学校、病院の再建を支援した。
東日本大震災復興を進める上で、これら中国の「決定の速さ」「アイデア」などは大いに参考になる。
日本でも、企業誘致のための税制の優遇措置や、病院や福祉施設の設置基準を緩和する規制緩和などが認められる復興特区制度がありこれを積極的に活用すべきだが、これまでに宮城県の「民間投資促進特区」など4件が認定されただけ。
特区による企業誘致は、雇用の確保などの波及効果があり、地域を再生する原動力にもなり得る。
特区制度をもっと活用できるよう、政府がリードし自治体につなげることが大切だ。
このままでは東日本大震災の復興は10年以上もかかってしまう。
大規模な復興事業が迅速かつ有効に作用すれば日本経済の復活にもつながろう。
<「コラム・巨象を探る」その15>
<「コラム・巨象を探る」はジャーナリスト八牧浩行(Record China社長・主筆)によるコラム記事)>
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